サンドロ・ボッティチェリ(帰属)
《聖母子と二人の天使》(部分)
1465-1470年、テンペラ、油彩・板、86.7×57.8cm、 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
Courtesy National Gallery of Art, Washington

ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美

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展覧会の4つのポイント

国内史上最大数のボッティチェリ作品17点(工房作など含む)が、世界各地から集結。

イタリア、フランス、アメリカから、天才画家ボッティチェリの作品が集います。
本展は、日本初公開作品を含む17点に及ぶボッティチェリ作品を、一度に展覧する貴重な機会となるでしょう。

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サンドロ・ボッティチェリ
《聖母子と二人の天使》
1468-1469 年頃、テンペラ、油彩・板、107×75cm
ストラスブール美術館
©Photo Musées de Strasbourg, A. Plisson

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サンドロ・ボッティチェリ
《ケルビムを伴う聖母子》
1470年頃、テンペラ・板、120×66cm
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze

ボッティチェリ最盛期のフレスコ画《受胎告知》の感動を体験。

ウフィツィ美術館所蔵の至宝、横幅5メートルにも及ぶフレスコ画《受胎告知》が来日します。
圧巻の大作をぜひ真近で感じてください。

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サンドロ・ボッティチェリ《受胎告知》
1481年、フレスコ、243×555cm
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze

ルネサンス誕生の原動力、フィレンツェ金融業の繁栄を展観。

フィレンツェ・ルネサンスは、金融業の繁栄なくして生み出されることはありませんでした。ヨーロッパ全土の貿易とビジネスを支配した当時の経済活動を、絵画だけでなく資料や商人の仕事道具などからご紹介し、芸術と経済の関係を紐解きます。

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フィオリーノ金貨 1252-1303年、金、直径2cm、グラッシーナ(フィレンツェ)、アルベルト・ブルスキ・コレクション
Grassina(Florence)、Collezione Alberto Bruschi

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マリヌス・ファン・レイメルスヴァーレに基づく模写 《高利貸し》 1540年頃、油彩・板、100×76cm
フィレンツェ、スティッベルト博物館
© Archivio fotografico Museo Stibbert, Firenze

門外不出、ボッティチェリの傑作《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》日本初公開!

本作はイタリア政府の「門外不出リスト」にも登録されている傑作です。
ピアツェンツァ市の協力により、本展での特別出品が決定しました。
3月21日から5月6日までの期間限定での展示です。
お見逃しなく!

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サンドロ・ボッティチェリ
《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》
1477-1480年頃、テンペラ・板、直径96.5cm
ピアチェンツァ市立博物館
©Musei civici di Palazzo Farnese - foto Carlo Pagani

用語解説

ルネサンス

 十字軍派遣で中東に残る古代文化の遺産に触れたヨーロッパでは、知識人の間で古代への関心が高まります。 14世紀、フィレンツェではペトラルカやダンテが古代の文芸に触発された作品を著し、ビザンティン帝国からギリシャ語学者が招聘され、人文学者たちはギリシャ語で直接、古典文献を紐解き始め、古代の再生を意識し始めます。 この 「再生」 をイタリア語で rinascita(リナシタ) といい、その再生運動をイタリア語で Rinascimento(リナシメント) 、フランス語で Renaissance(ルネサンス)と呼びます。

 ボッティチェリの名作 《ヴィーナスの誕生》 や 《春》 も、14世紀以来の古典研究の成果と言えます。 古典文化をもたらした地中海は通商路でもあり、地中海貿易は北イタリアの諸都市を潤しました。ことに13世紀以来、国際金融の中心として繁栄を謳歌したフィレンツェでは、商人や銀行家がこぞって自分たちの聖堂や邸宅を飾る芸術作品を依頼します。国際交易と銀行業による富と栄華によってルネサンスは花開いたのです。

ボッティチェリ

《ヴィーナスの誕生》や《春》などで知られる初期ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)。

 1445年に皮なめし職人の息子として生まれたボッティチェリは64年から67年までフィリッポ・リッピの工房で修業し、画家となります。一時、彫刻家ヴェロッキオの工房に出入りした後、69年に独立し、70年には工房の親方として公的な仕事の依頼を受け始めます。 記録のある最初の作品 《剛毅》 (1470年) が商業裁判所からの依頼であるように、町の政治、経済を動かす商人や銀行家は彼の重要なパトロンでした。フィレンツェの実質的な支配者である銀行家一族メディチ家との関係も70年代に遡り、同家とその周囲の商人、銀行家からの依頼で数々の名作を描き、特に同家の庇護下の哲学者マルシリオ・フィチーノや詩人アンジェロ・ポリツィアーノとの交流から生まれた作品は古典文化への憧憬や新プラトン主義の思想を色濃く反映しています。

 しかし92年のロレンツォ・デ・メディチの死とともにメディチ家は凋落しはじめ、ドミニコ会修道士サヴォナローラの考えに共鳴したボッティチェリの作風は神秘主義的な傾向を強めていきます。1501年以降は注文も途絶え、1510年、ひっそりと世を去りました。

メディチ家

 フィレンツェで銀行家として台頭したのち、政治も掌握。ボッティチェリらルネサンス期の画家たちのパトロンとして文化芸術活動を支援した一族。

 1397年、法王庁の金融業者ジョヴァンニ・ディ・ビッチがフィレンツェにメディチ銀行を設立しました。その息子コジモ(1389-1464)は、党派闘争ののち、共和制フィレンツェの実質的な支配者になります。メディチ銀行をヨーロッパ中に拡大させた豊富な資金力を背景に、優れた学者を集めプラトン・アカデミーを設立し、ギリシャ語文献をラテン語訳させるなど、文芸保護に尽力しました。さらに公共建築に力を入れ、ルネサンス建築の繁栄を支えたのです。「祖国の父」と呼ばれたコジモ、その息子ピエロの統治をへて、フィレンツェはロレンツォ豪華王(1449-1492)の時代に入ります。弱冠20歳で統治者となった彼の時代に、新プラトン主義は最盛期を迎え、ヨーロッパ文化に決定的な影響を残しました。ロレンツォは、地元の優れた芸術家をローマやイタリア各地の宮廷に派遣し、文芸保護に努めました。そしてフィレンツェ・ルネサンスは黄金期を迎えます。卓越した外交手腕で群雄割拠のイタリア半島に平和がもたらされた時期でもありました。

 1492年、コジモの晩年から傾いた銀行業を立て直せないまま、ロレンツォは43歳の若さでなくなります。彼の死は、フランスのフィレンツェ侵攻を招き、その対応に追われたメディチ家は1494年にフィレンツェを追放されました。

サヴォナローラ

1491年にサン・マルコ修道院長に就任したジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)。 

 ローマ法王アレクサンデル六世率いる教会の堕落を批判し、清貧思想を説き、支持者たちを町中に派遣して贅沢を取り締まりました。市民に贅沢品を燃やすよう、“虚栄の焼却”への参加を呼びかけました。多くの芸術家がその作品を燃やしたとされます。しかし、彼の神権政治は長続きせず、激しい教会批判は、かえって民衆の反発を集めるようになり、1498年、サヴォナローラは民衆の手によって火刑に処されました。